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竹鶴リタ


竹鶴リタ(1896-1961)は


ニッカウヰスキー創設者竹鶴政孝の妻でスコットランドの出身。
余市に長く生活した。


竹鶴リタに関する3冊の本。










①『ヒゲのウイスキー誕生す』 川又一英
②『リタの鐘が鳴る』 早瀬利之
③『ヒゲと勲章』  竹鶴政孝

竹鶴政孝(1894-1979)は
余市のニッカウヰスキーの創設者
彼は造り酒屋の息子。
摂津酒造に在職中にウイスキーの製法を学びにグラスゴー大学へ。
そこで、リタの姉と知りあい、弟に柔道を教えに家に招かれる。
父は医者と言う厳格な家庭。
そこでリタにあい、恋人同士に。
結婚を切り出す前に医者の父は急死してしまう。
リタの母は結婚に反対。

父亡き後すぐに、長女まで遠い東洋の国に行くことをよしとしなかったのか。。
二人は教会での結婚はできずに書類を役所に提出しての結婚。
竹鶴の両親は判断を摂津酒造の安部社長にたくし。
阿部はリタの人物を見るためにスコットランドへ。
阿部の立ち会いのもと、二人は役所に届けを出す形で結婚。

やがて政孝は日本に帰国。
摂津酒造に入るがウイスキー製造に乗り出せず退社。
リタは経済的に困窮時には英語教師の職に。
竹鶴も一時同じ学校で化学教師をした。
やがて
サントリーでウイスキーを製造に関わる。

サントリー時代に視察で竹鶴一家はスコットランドにわたりリタは母親と和解した。
最初のウイスキーの仕込から3年。

5年は待ちたいとの竹鶴を押し切ってサントリーはウイスキーを発売。
竹鶴は落胆する。
やがて、竹鶴の母の死や、自分がビール製造を任じられたことで
11年でサントリーを退社した。

独立して
スコットランドと気候の似た余市に工場を設立。
ここで、リタの余市での生活が始まる。

竹鶴への資金援助者はサントリーへの配慮からウイスキー製造を認めず、
設立したのは、リンゴジュース会社であった。
余市は美味しいリンゴがたくさんとれる果樹園地帯だった。

大日本果汁株式会社。
それが現社名のニッカにつながる。

苦労してリンゴジュースの製造を続けながらも
竹鶴はウイスキーづくりへの情熱を忘れ難く
秘密に製造を開始する。
お金もない道具もない悲惨な状況

そのうち、ウイスキーの熟成が進んだころを見計らって
出資者を説得してウイスキー生産を正式事業とする。

その後
第2次大戦時には軍部の需要で、ウイスキー生産・販売が軌道に乗る。
戦後は、進駐軍の注文が殺到してさばききれないほどだった。

ウイスキーの大衆化の時代がやってきた。
3級といわれる原酒5%以下のウイスキーが日本で大流行。
3級のウイスキーは否定しながらも
製造会社に原酒を下すようになる。
やがて自社でも原酒率を落としたウイスキーを販売せざるを得なくなった。

竹鶴は1979年に亡くなり、リタと共に余市の墓に眠る。

一方のリタの人生。

竹鶴との結婚でスコットランドをはなれ
ウイスキーづくりに情熱を燃やす夫を支えることを自分の仕事とする。

結婚すると
リタは日本人になろうとした。
スコットランドを離れて以来すっと夫だけが頼りの生活
母に会ったのは結婚して13年目に一度家族でスコットランドを訪問した時だけ。
妹は一度、日本に来たがそれ以外家族の誰とも会わないままだった。
リタは食べ物にこだわる夫のために
日本風の食事を作った。
イカの塩辛や漬物は名人だった。
お正月には着物を着てすごした。
リタは一度流産してから子供ができなくなっていた。
養女を迎えたが、彼女は思春期に厳しい躾に反抗したのか家を出てしまった。
次には夫の親戚の青年を事業の後継者として養子に迎えた。
彼が結婚して孫ができるとリタは家族が増えたことを喜び
嫁には漬物作りを教えたともいう。

リタが苦しかったのは第2次世界大戦中
イギリス人というだけでスパイの疑いをかけられた。
私生活が監視され、
ラジオのアンテナは秘密情報を送る信号機ではないかと疑われた。

日曜日に小樽や札幌の教会に行くときには警察の尾行がついた。
戦時中に日本に住んだ外国人はみな同じような体験をしたという。
キリスト教徒は警戒された。
町人の態度にもよそよそしさを感じた。
一時はひどく落ち込んでいた。
でも、
その思いを記録に残すこともなく
心のふさぐ日が続いて健康を害した。

やがてはニッカは本社を東京に移した。
高齢になったリタは健康を害していた。
健康のために、1955年に気候の温暖な湘南に夫と転地した。

しかし、
長年住み慣れた余市が恋しく
1960年にリタは余市に戻った。

死期が近いをことが分かっていたのかもしれない。

余市に帰ってきてまもなく
養子の武とその家族と夫に見守られ
1961年に64歳の生涯をとじた。

今でも余市には「リタ通り」や「リタ幼稚園」がある。

リタは夫とともに余市に人生を刻み、そして名を残したのだった。
20世紀の前半に、
国際結婚が珍しかったころにスコットランドから日本へやってきたのを
数奇な運命というのだろうか
それとも、
好きになり結婚した相手との生活を大切にしただけの普通の人生と言えるのだろうか。
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by endoms | 2009-08-03 00:27 | それぞれな女たち | Comments(0)